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小松市の動物病院・トリミング
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お正月の4日は久しぶりの晴天に恵まれ、家族で一里野温泉スキー場にでかけました。ここにはキッズパークというのがあり、安全に子供たちにソリ遊びやスキー、雪遊びができます。ベルトコンベア式のリフトもあって辛い登りもなく子供は大喜びでした。

ソリ場 結構スピードが出てスリル満点

会場でただ一人の丸刈り

ミニ滑り台に歓喜!

フカフカの新雪でのスキーは最高!!

1986年12月31日の大倉岳山頂は、どよんだ雪雲の下にぼた雪が落っこちてくる北陸の冬独特の天候でした。その中でかじかんだ手をこすりながらそそくさとテントを張り、ブーツを脱いで中にもぐりこむ。わずか1畳たらずの室内は私とエルの体温ですぐに温まります。まずは熱い紅茶で一息つき、レトルトとスナックの軽い夕食を済ませ、持ってきた携帯ラジオのスイッチを入れると「好きよ〜あなた〜今でも〜今でも〜」と紅白歌合戦で熱唱する吉 幾三の声が・・・。紅白歌合戦は世界中で放送され、世界に散らばった邦人の心をなごますというが、なんとなくその意味がわかったような気がしました。言葉が通じず、文化も違う異国で聴く演歌は心にしみる

気がつくといつしか深い眠りに就いたようで・・・、時計を見ると1月1日の午前2時。87年の年明けを私は犬と2人寝袋にくるまりながら迎えました。初夢は覚えていません。

翌朝もやはりぼた雪。朝食は雑煮です。秋のうちにデポ(穴を掘って食料などを保管すること)してあった薪を掘り出し、火をおこし、コッヘルでその辺の雪を溶かしてお湯を沸かす。持ってきたスルメでダシを取り、佐藤の切りもちを入れると念願の雑煮が出来上がり。平地で食べてもさほどウマくないものが、山で食べるとすこぶるウマい。この雑煮は私が生まれて初めて作ったものでもあったので今でもその味は忘れられません。

さて、雑煮を食べた後は、撤収作業。ビチャビチャに濡れたテントをたたみ、来たときよりも遥かに重いザックを背負って山道を下る。帰りは再び大倉岳高原スキー場を通過し五百峠から尾小屋に向かう。荷物を背負っての山歩きは登りよりも下りの方が実は大変。陸上部で鍛えた膝もガクガク。休み休み急勾配の道を下り、夕方近くに尾小屋の集落に無事到着しました。

本当は近くの公衆電話から父に迎えに来てもらう電話をする予定だったのですが、何だか立ち止まるのが惜しく思え、そのままエルと家のある観音下町まで歩きました。

いったい何キロ歩いたのか分かりませんが、とても充実した3日間が終わり、結果的にはこれがエルと行った最後のキャンプになりました。

朝起きると、一面の銀世界でした。

しかし、幸い天気は曇りで朝食の準備は狭いテントから出た外で行いました。

それにしても寒い

指がかじかんでコチンコチンに凍りそうです。

EPIガスの寒冷地用のコンロのノズルをひねると勢いよくガスが噴射され、コッヘルに入れた雪はあっという間にお湯になりました。素早くカップスープを作り、一口すするとポカポカと体が温まるのが分かります。あとは菓子パンをほおばり、朝食は終了。当然エルも同じ食事。その後、そそくさとテントを撤収し65リットルのザックに荷物をまとめると、さあ、出発!。今日は新保の集落を五百峠まで雪の上を進み、大倉岳高原スキー場を横切って、現在の第3リフトの脇から大倉岳山頂を目指します。北陸の人はみんなご存知でしょうが、雪というのは雪質と深さによって歩くのにかかる負担がまるで違います。一番歩きやすいのはカチカチに凍った雪の上、このようなことは3月の昼間にゆるんだ雪が、放射冷却でキーンと冷えた翌朝にのみあり、12月ではありえません。その次に歩きやすいのは足首までの雪、滑ることに注意すれば普段道を歩くように進むことが可能。最悪なのは膝くらいの深さで湿った雪。この場合はカンジキを履いても足は少し埋まるしカンジキに乗った雪が結構重く股関節にもろに負担がかかります。今回はこの最悪の状態でした。汗びっしょりになって進むけどなかなか距離が稼げず、休んでは進み休んでは進む。しかし、途中では見たかった大日川源流部の雪景色を堪能しました。雪の上にどかっと座り魔法瓶から朝詰めた暖かく甘い紅茶を飲むと疲れが引きました。大倉岳高原スキー場の白山ロッジ(今はもうない)には昼に到着。雪不足で営業はされておらずガランとし、シーンとしたスキー場のロッジの中でサッポロ一番みそラーメンを作り、ベビーチーズを入れて食べた。山で食べる即席ラーメンってなんでこんなにおいしんでしょうか。一息ついたら体がのんびりしないうちにいよいよ大倉岳山頂に向かいました。しかしここからは登り。これが結構しんどくて、口から心臓が飛び出しそうでした。重い雪をかき分け進む。エルは私の歩いた後を器用に踏んでいかにも楽そうに『また休憩ですか!?』と言わんばかりの目線でこちらを見ます。陸上部で鍛えた高校2年生は体力的、筋力的に見てもかなりのもののはずなのに・・・。しかし、苦労して汗びっしょりになって到着した山頂での喜びは、何度も登ったこれまでとはケタ違いにうれしいものでした

エルも年ながいもなくはしゃいであたりを走り回っていました。

高2の冬休み。

2泊3日の行程でそれを実行しました。

小松の山手にある赤瀬ダムを出発点とし、大杉⇒牛が首峠⇒新保)⇒岩魚の養殖所⇒再び新保((1泊目)⇒五百峠⇒大倉岳(2泊目)⇒五百峠⇒尾小屋⇒観音下が山行ルートです。

このコースは馴染みの道で(バイクでさんざん走った!)眼をつむっても大丈夫・・・でも冬となると勝手が違いますよね。担任のM先生は心配して冬用の装備を貸してくれるだけでなく天気図の読み方なども教えてくれました。当日も電話でいろいろとアドバイスをいただきました。

今回もエルがパートナーです。

メインは元旦に大倉岳の山頂で焚火で作った雑煮を食べることです。登攀当日に雪で薪が取れないと困るので、晩秋の晴れた日に大倉岳山頂に乾いた薪と缶詰を隠しておきました。

そして当日、天気は快晴とはいきませんでしたが、吹雪などではなく、心配した雪も20センチほど。赤瀬ダムで父の車から降り、背中に装備一杯の60Lザックを背負ってエルと歩き始めました。集落内は除雪がしてあって歩きやすかったけど、ザックの帯が肩に食い込みイタイイタイ。でも、一面の銀世界とこれから始まる旅路に胸が鳴りました。

大杉の集落を過ぎるとだんだんと雪が深くなってきました。そこで最初の秘密兵器、クロスカントリースキーを装着。するとまるで平地を歩いているかのように進むことができ快適!。ぐんぐんと走行距離が延びました。エルは賢いもので、私が踏み固めたスキーの跡をうまくなぞるようにして楽々とついてきます。

「牛が首峠」はけっこう急峻な道で雪がある場合はなかなか大変なルートです。しかし、汗びっしょりになって到着した終点の雪景色は最高でした。大日川は小松人の宝です!!。年中すばらしい景観で心を癒してくれます。特に冬の凛とした空気の中で見る景色は見る人の心を打ちますよ。

その場所からさらに奥に奥にすすむと岩名の養殖場があり、そこまではほぼ平地なので快適なツーリングです。右手に大日川、左手に大日山系の雄大な山林を見ながらの至福の時。岩名小屋で折り返し、チーズ入りのインスタントラーメンをエルと分け合って食べ、来た路を引き換えし新保の集落の中の雪を避けられる場所で幕営しました。その時使用したのは雪に強いドームテント、マニアならご存知のkamoshika製。広さは畳一畳分で狭いけど寒いのでエルと寄り添って眠るにはちょうど良い大きさでした。ガスランタンを灯すとテントの中はすぐに暖かくなります。疲れた体には砂糖を一杯入れた紅茶が一番。夜はエルと寝袋でグッスリ眠りました。

毎年、夏休みにはキャンプに出掛けます。

今年は中能登では人気の『増穂浦キャンプ場』に2泊3日で行ってきました。

前日までの雨はすっかり晴れ、真夏の日差しがカンカン 最高のキャンプ日和です。

車の天井にカヌーを積んで、出発!!

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着くなり、いきなり乾杯?

まあ、いいじゃありませんか、夏休みだし。

テント場から海まではすぐです。

砂浜がきれいで、遠浅なので子供でも安心です。

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今回は車泊しました。

この車(フォルクスワーゲンのバス)には簡易ベットがついていて、大人2人子供2人が寝られます。

今から夜になるのが待ち遠しい!

ちなみに、ハンモックは子供限定なんですよね。

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食事の後のデザートは『メロン』。小さい時夏休みにはスイカならダラほど食べさせてもらえたけど、メロンはなかなか・・・。羨ましいです。

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この浜はスゴイ!

翌朝は 5時から娘と3人で海水浴場沖にカヌーでキス釣りに行きました。

25センチを筆頭に、ほぼ入れ食い状態。

しかし、一つ問題が・・・。カヌーに穴が開いており、だんだんと浸水

30分で引き返すことになりました。

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2日目は、あいた穴をガムテープで補修して再チャレンジ。

やっぱり、入れ食いで1時間もかからずに30匹くらいをゲット!。浜でから揚げにしたり、大きいものはサシミでいただきました!

楽しかったな〜

また行きたいです

高校2年の夏をタップリと愛犬と過ごした私は、次は何をしようか、ということばかり考えていました。

といっても、残念ながら秋休みというものはないので長期のキャンプはできません。

しかし、私の住んでいた観音下から奥の大日山系にはまだ手つかずの原生林が残っており、よくスーパーカブを駆って散策にでかけました。燃えるようなうつくしい紅葉は全くもってスバラシイ!小松市民として誇りに思います。犬はどうして連れて行ったかというと、スキー用の大きなリュックサックに犬が顔を出した状態で入れて、カブの前にとりつけていました。写真がないのが残念ですが、エルは慣れると嫌がらずにリュックに入ってくれました。

犬といっしょにオートバイで風を切って走ると、気分爽快!。嫌なことも忘れてしまいます。高2といえば悩み多き年代。部活のこと、勉強のこと、進路のこと、将来のこと・・・・etc。私の場合それらのことを焚火の炎を見つめながら色々と考えるのが好きでした。しかし、決まって炎を前にすると悩み事は消えてしまうから不思議。そばには必ずエルがいる。高2の秋は美しい大日川沿いのお気に入りの場所で何回もキャンプして過ごしました。そして、あるときフと思ったのです。「大好きなこの場所は冬になるといったいどんな景色になるのだろうか?」と。 20年前の冬は今よりも寒かったように思います。積雪量も多く、当然道は雪で閉ざされます。その上を行くとなるとカンジキやスキーが必要。また、装備も冬用が必要になります。「冬山の経験などない自分が果たしてできるのか。」などと心配すらしなかった自分が余計に怖~い。私は担任のM先生に相談しました。先生は「ダラ!」と言ったあと、「また明日来い。」と言いました。次の日また行くと、テント、寝袋、ダウンジャケットを持ってきてくれていたのです。私はがぜんやる気になりました。そして、どんなルートで行くか!と考え始めたのです。

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8月下旬、テント生活も終盤を迎えます。その頃には随分と炊事の腕は上がっていました。毎日欠かさず焚火でホカホカのご飯を炊き、包丁で食材を切り調理します。朝食はいつもご飯とみそ汁、ベーコンエッグに野菜。特に野菜は冷たい沢水で冷やして最高にうまかった!。

私は包丁を使うことが得意でした。ここで培った経験はその後の大学生活で大いに役立ちました。冬にスキー場の旅館でバイトしていた時も。旅館では朝夕の2食をバイトが作るのですが、私はいつも切りもの担当でした。切りもの担当は旅館のママさんの指示どおりに肉や野菜などの食材をとにかく切っていきます。最も得意だったのはキャベツの千切りで、いつもキャベツを丸ごとから細かい千切りを作っていました。5個も作ればボール何杯にもなり、作りあがったときは爽快。よくバイト仲間とキャベツの千切り競争をやりました。

8月の最終週に学校では補習が開かれました。任意の参加だったのでもちろん私は不参加です。しかし、ある日登校日ということで学校に行くと、担任のM先生から、「補習に来なかった生徒の家に家庭訪問する!」と言われたのです。もちろん私の家にも来るとのこと。私はその時ずっと山にいたので先生にそう言うと、先生はテント場に来るというのです。そして家庭訪問の当日、私はもてなしの気持ちを込めてカレーライスを作りました。焚火でコトコトと材料を煮てバーモンドカレーで仕上げる。その隣ではシューシューと飯盒が熱い湯気を吹いていました。午後5時ごろ、林道に1台の車がやって来ました。先生は「ホイ」といって紙袋を渡しました。開けると中には冷えた梅ゼリーが。「先生、お土産持って家庭訪問にまわっているんですか?」と聞くと、「だら、お前んとこだけやわいや」と笑って言われました。どうやら、何もないと思っていたようです。私は手作りカレーと野菜サラダをご馳走し、二人と一匹で焚火の火をながめ、沢の音を聞きながら先生と談笑しました。先生は山岳部出身でテント生活はおてのものとのことでした。その他何を話したか、細かいことは覚えていません。覚えているのは次のやり取りです。「お前、進路は?」 「獣医大に行きます。」 「ほな、浪人やな」。

この家庭訪問の数日後、私は山から引き揚げました。一つのことをやり遂げたという充実感と明日から再び始まる学校生活に、というより「さて、次は何をしようかな〜」という期待を胸に。

テント生活をしていて困ったことは唯一、雨です。

一度はすごい豪雨にみまわれ、いつもならサラサラと流れる清流が、渦巻く濁流(おおげさ・・・)となりゴーゴーと唸りながら眠っているテントの下を流れました。

実はこのような事態になっても大丈夫なように、床板の設営は梅雨時期に行っていました。その時点で水面から50cmは余裕があったのに、アレヨアレヨという間に水面はみるみる上がってきました。以下そのときの心境・・・・・。1日目「は〜雨ですか。」っと余裕シャクシャク。2日目「おっまだ、いきますか」がんばってね。3日目「そろそろ、やみませんかねエ・・・」。さすがに4日目には「神様ご勘弁を・・・」とばかりに、夜にいそいそとテントを撤収しました。寝ている背中の下を水が流れるという経験はなかなかないですが、あまりに勢いが強いと正直ビビります。うつらうつな眠る夢の中で私は必死に泳いでいました。夢から覚めてビックリ!、水面は床下のわずか10cmへと迫っていました。仕方ないので夜、ヘッドランプを灯して、エルとずぶ濡れになってテントの撤収作業を行いました。

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一夜明けてビックリ、鍋やフライパンなどが流されてしまっていました。幸い板張りは流されることなくすみ、テント生活を途中で止める事態は避けられました。しかし、このあとが結構大変。湿った布は夏の適度な湿度と温度でカビが発生!!。テントもフライシートも寝袋もホカホカにカビちゃいました。日光の差し込む場所を探してすべての物を干して、乾かすのにずいぶん苦労しました。でも、こんな作業も山というフィールドで体験すると結構スリリングで楽しいものです。先の話ですが、大学時代に6年間在籍した野生生物研究会での野生動物調査でのキャンプでは随分といろんな経験をするのですが、この頃の体験ほど楽しいものはなかったし、一人で成し遂げられたからこそ、学生時代フィールドでおこる難題にもめげずにやり過ごせたのでしょう。

遊びにきた母と姉

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山でのテント生活は快適でした。

日中は木陰で涼しく、夜は谷を吹き抜ける風が寒いくらいでした。

寂しくないの? いやいや、全然。ほぼ毎日友人が遊びに来ていましたので。

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山では『ナイフ』『火』『釣り=狩猟』と男が好む3つが常用のもので、遊びに来る友人たちは皆喜んで遊んでいました。自分で釣った魚をナイフでさばいて、焚火で焼いて食べる。箸は木の枝を削って作る。雨の日用にガスコンロは置いてありましたが、食事はほぼ焚火で作りました。

焚火というのはイイ!。山ではラジオやテレビはもちろんないのでヒマなんじゃないの?と思われるようですが、焚火の火を見ているだけで時間はあっという間に過ぎます。

それでいて、とっても静か。焚火を眺め、燃え盛る炎の先にまだ見ぬ未来を想像し、胸を躍らせていました。なんせ10代ですからネエ、若かったワ。

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当然腹も減ります。今でもあの時の味に勝るものはない!と断言できるのは、友人のお父さんが持ってきてくれたジャガイモです。谷川の水でコトコトとゆでて、粗塩をパパッとかけてアツアツのやつを頬張る。お旅のジャガバターの100倍うまかった。エルも大好きで、キャンプしていた1カ月で米袋一杯のジャガイモを食べました。皮はそのままの方が最高!!

キャンプ地に友人たちはバイクで来ていました。50ccのスクーターです。

あんな小さなタイヤで砂利の林道を走るのはなかなかのテクニックを要します。私はときどき、父のスーパーカブを愛用していました。スーパーカブはタイヤが大きくトルクも十分だったのでガタガタ道もなんのその。父にはヘルメットをかぶるよう叱られましたが、ほとんどは手ぬぐいを巻いて疾走していました。しかしカブはさすが世界に誇れる名車!。一度も給油なしでひと夏を過ごせました。

これに酒とタバコが入れば完璧だったんですが、純情な私たちは不思議とその両者をやりませんでした。よく考えたら皆バリバリの運動部でしたから、体は大切にしていました。

エルはもともと臆病な犬でつないでいるときは家族以外になつくこともなく、むやみに触ると噛みつく犬でした。しかし、キャンプ地に訪れる友人たちには寛容で「あら、いらっしゃい」というような歓迎ぶりだったのがおもしろかったナ~

 よくみんなで騒いでいた時も一緒に輪に参加していました。

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1986年の夏、高校2年生の私と愛犬『エル』との山での生活が始まりました。

父と二人で行ったのは、テントを張るスペースを作るところまで。後は自分一人で考えて作業しました。小川の上に板を張ったその上にテントを張り、その上に雨除けのシートを設置。砂利スペースに拾ってきた石で煮炊き用のカマドを作成。小川には食器を洗うための流しを作りました。それらの作業の一つ一つに工夫が必要で、なんとか上手く作れた時の喜びは既製品で事を済ますことの多い現代では感じることのない喜びでした。

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エルは全くの自由。どうせならと首輪まで外しました。当然わたしもスッポンポン(これはウソ)。

周囲360度を緑に包まれ、怖いどころかメチャクチャワクワクしました。

昼に部活から自転車で帰った後、急いで昼食を食べ、その晩と翌朝の食材をリュックに詰め込んで出発!。集落のはずれから川沿いの林道

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を約30分入り、さらに林道から50Mくらい離れた所にキャンプ地はありました。

汗びっしょりになって到着すると荷物を投げ捨て、渇いた喉をきれいな小川の水でうるおす。一休みしたら薪拾いや薪割り、食事の準備や毎日のように釣りをしました。あたりが薄暗くなり、聞こえるのはパチパチと燃えるカマドの薪がはじける音と、ときどき聞こえるトラツグミの声く

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らいです。大倉岳の山頂のようにここは開けていない森の中なので、暗闇はとことん暗く、夜空がこんなにも明るいものだということをその時初めて知りました。

おばけなんかちっとも怖くありません。ただ、もしかしたらクマが出てきたら・・・・という怖さはありました。事実、エルはときどき闇に向かってけたたましく吠えることがありました。そんなことが何回かあったとき、ふと「もしクマなんか近づいてもエルが教えてくれる」と気付きました。そのとたんになんかあんまり怖くなくなりました。エルは山ではけっこう頼りがいのある奴になっていたわけです。以前にも書きましたが、山にいるときは私とエルはお互いに頼りあっていました。その関係は「リーダーと服従犬」とはちょっと違います。もちろん当時はそんなしつけの教科書に書かれているような事は意識になかったので、2人はとても自然な関係だったのです。

夜は比較的早く寝ました。明かりはグリーンスタンプを一生懸命集めて手に入れた灯油のランプだけ。その明りの下で上村直己の本を読みふけ、いつの間にか深い眠りに・・・。毎日テントの中で小川から吹き抜ける涼しい風にふかれ、とても気持ちよく眠りました。

毎晩、もちろんエルと一緒に。

観音下町は大倉岳高原スキー場の手前5kmくらいの所にあり、私が小学生だった昭和50年代には『観音下石:日華石』という、小松では住宅の基礎や塀に珍重された素敵な石が採石されていました。

集落は95パーセントが緑に囲まれており、集落の中央に流れる小川には清流に住むアマゴ、ゴリなどが生息。もちろんクマやタヌキ、イタチにテンといった野生動物の宝庫です。

高校2年当時に私がひと夏を愛犬と過ごすためにキャンプ地を探したのはその美しい川の上流です。川といっても広いところでも幅2m位の小さな支流です。しかし、集落のはずれから上流まで林道を歩くと約30分かかります。

私は渓流釣りが得意で、どのあたりに、どんな魚が潜んでいるかなどは小学生の頃から知っていました。なのでキャンプをする場所を見つけるのには正直言うと随分迷ったのです。悩んだ挙句に決めたのは、川幅が2m位あり、川べりの片方は広い砂利&草むら、もう片方は切り立った崖のところです。砂利側にはカマドをつくり、崖側にはちょうど上手い具合に自生していた木から太いワイヤーを2本たらし、太くて長い木を使って長さ4m位のブランコを作る。そして、そのブランコに木を渡し、板を貼り、ちょうど川の上に畳4枚分位の住居スペースを作ろうとしました。

父が川の上に板を張るまでの工程を手伝ってくれました。私たちは腰に鉈(なた:山で植物のツルや小木を切り払う道具)頭に手拭いを巻いての作業です。ちなみに材木のほとんどは冬に倒れた倒木を利用。そして、作業した日曜日の夕方には、私とエルが夏休みの間過ごすキャンプ地の下地が完成したのです。

完成した『川の上のキャンプ地』し父と二人あぐらをかいて座ると、一陣の風が吹き、何とも言えない充実感を感じたのを覚えています。とともに、もうすぐ始まる未知の時間に胸が高まりました。

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1986年 夏

山深い渓流に手作りのキャンプ地を作った。

次回はそこでの『犬との暮らしぶり』をご紹介します。

久しぶりの執筆です。

4月5月と怒涛のような忙しさでした。

これからはがんばって定期的に更新しますので皆様よろしくです。 

自然の中で犬とキャンプする醍醐味を17歳にして経験してしまった私はとても幸福でした。

ちょっと足を延ばせば人一人いない山林があったし、町内の奥には昔話そのままの正に「竜がでそうな堤(つつみ:田んぼに水をひくためのため池)」がいくつかありました。小川には天然のアマゴやイワナがおり、釣ったりヤスでついたりできた。そして、いつも一緒に遊ぶパートナーとして『エル』がいました。もちろん始終一緒についているわけではなく、適当にそれぞれ好きなことをして過ごし、食事や寝るときは一緒。ただし呼べば必ず森の中からどこからともなく現れます。

まるで、クロヒョウ(ロデム)率いるバビル二世になった気分でした。

 高校2年生の春にキャンプ道具を一通り揃えた私は、長い夏休みをどう過ごすか迷いました。できるだけ長くキャンプしたい!。しかし、問題はどこでするかでした。なぜなら午前中には部活があり、ほぼ毎日末広陸上競技場まで自転車で行かねばならなかったからです。キャンプと部活との両立は大きな課題でした。

 山でテントを張るだけではつまらない。そこで、堤にドラム缶で作ったイカダを浮かべてその上にテントを張って暮らそう と考えました。

しかし、ドラム缶をそんなにたくさん調達することは不可能なこと、堤は夏暑く、蚊が大発生する恐れがあること・・などから断念しました。

さて、どうしたものか?。さんざん悩んだあげく私は父に相談したのです。

父に相談したところ、観音下の奥を流れる小川に流木で橋を渡して、その上にベニヤ板を張り平らにしてテントを張ってみたらどうか、と言われ(普通止めるような気が・・・)ました。私はその言葉にがぜんやる気になり、さっそく日曜日にエルを従えて川に下見に出かけたのです。

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翌朝は見事な快晴!

東の空がしらじらと青白くなり、鳥のさえずりが聞こえだす頃目が覚めました。

エルはすでに周囲の散策に出かけて不在。私は体育館では1週間しか使わなかったバッシュを履いて外に出るとあまりの清々しさに心を洗われました。『エル!』と大きな声で呼ぶと奴は矢のように駆けて来ました。犬というのは自由にするとこんなにも生き生きとするものなのか、とその時初めて知りました。朝食も食べずにそそくさとテント(もどき)を片付けると、下山をはじめました。クマ笹生い茂る尾根筋を朝日を浴びながら進む登山道。 遠足で何度も通った道なのにとても輝いているように思えたのはきっとドキドキしていたからでしょう。早朝の朝日に照らされたクマササの道をエルと走って進みました。そして、チャリンコで家に帰るとそこには普段の高校生活が待っていました。しかし、昨日までとは明らかに違う自分がいるのがハッキリと分かる。『また、今度はエルとどこに行こうか?』という希望と『ちゃんとした装備を買うためにバイト(当然学校にはナイショで)をしよう』と決意。幸い春休み前で時間もありました。部活の帰りに、ゴルフの打ちっぱなしや飲食店などを回るのですがどこも門前払いを受けました。そこで最後に鉄工所の門を開け、社長にお願いしたところ「イイゼ!」とOKをもらったのです。その日のその場で採用!働き始めました。」私の高校2年の春休みは午前中は部活、午後からは鉄工場で金属の部品に穴を開けるアルバイト。頭に手拭いを巻いて、毎日油まみれになりドリルでただひたすら穴を開ける・・・。『毎日、毎日ボクラは鉄板の上に穴あけイヤになっちゃうよ〜』と泳げタイヤキ君の変え歌を歌いながら、おじさん、おばさんに混じって。でも、2週間後には自分で初めて稼いだお金を手にしたのでした。その足で『サンスポーツ』に行きおっちゃんにテントと寝袋とキャンピングガスと・・・・注文。 当時は今のようにアウトドアショップなどない時代でした。注文した商品の載っているカタログを毎日穴があくほどながめました。

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そして、ついに迎えたゴールデンウィーク。手にした真新しい道具と再びエルと大倉岳に行きました。説明書を読みながら初めて建てたドーム型のテントは当時では最先端のフォームでしたし、EPIガスのキャンピングストーブは一発で着火し、あっという間に1リットルのお湯が沸きました。夜寝袋に入るととても温かですぐに夢心地に。でもせっかく買ったヘッドランプを使いたくて眠い目をこすりながら上村直己の自伝を読みました。そばにエルがいてスヤスヤと寝息をたてる。聞こえるのはその音だけ。夜というのはこんなにも静かなんだなあ〜と初めて思いました。

このときから、私は犬とキャンプ道具をもって山に出かけるということにはまりました。

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首輪から鎖を放し、私は家から離れ一人になることで2人とも自由を得る。しかし、時間がたてば腹も減るし、新しいことを行えば不安感もある。そんなときは自分で考えて、手を動かし乗り越える。そんなことが日常にあまりにも少ない様な気がします。犬が一緒にいることでとても勇気づけられるし、気持ちが明るくなる、それに暖かい。体のぬくもりと目が合った時の安心感がたまらなく好きですね。

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写真の裏の当時のメモ

さて、次はどこに・・・・。 実はとってもバカなことをやったんですわ。

高校でも陸上部に入部。本当はバスケット部に所属しましたが、中学時代に親しんだ野外の400メートルトラックに比べ体育館という閉鎖空間になじめず7日間で退部しました(しょまたれ!)。しかもハードルという短距離種目から『ヤリ投げ』に転向。石川県は当時やり投げのレベルが高くインターハイや国体に必ず数名の選手が出場、私も北信越大会までは出場させていただきました。

1年間はおとなしく?学生生活を過ごしましたが、2年生になった春に突然『犬との関係とは』などということを再び考えだし、上村直己の単行本を読みふけるようになりました。

犬と野山を散策し、テントで寝て、同じものを食べたらなにかこれまでとは違う関係が築けるのだろうか・・・?

しかし、良く考えたらおいらキャンプ道具は何もない。そこで、親父の車のカバーと新聞をしばる時に使うヒモ、マッチ、台所にあった鍋、毛布1枚等を持ってとにかく出発!!といってもヒマラヤなどに行けるわけもなく、大倉岳に1泊2日で登山に出かけました。リュックにキャンプ道具を詰め込み、愛犬エルと一緒に山頂に向う。部活があったので夕方に登山口から登り始めると、下山する人から『えっ?今から行くの』と言われ少し恥ずかしかった・・・(もしかしたら家出と間違われた?)。

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しかしここで発見したのは、飼い主以外にはけたたましく吠えたり飛びかかったりするエルが自然の中では穏やかになったことです。登山客とすれ違っても『私は私よ〜ん』とでも言うようにさっさと歩く。でも、必ず私が見えなくなるようなところまでは離れず、常にこちらを見張っていてくれる。おかげで私は安心して山を登れます。途中の泉で2人のどの渇きを癒し、ただひたすら頂をめざす。山は低くとも気持はヒマラヤの高原・・・2人で同じことにチャレンジしていることに例えようのない充実感を覚えました。

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そして、太陽が西の空を赤く染める頃、2人は目的地の山頂に到着しました。

休む間もなく2本の木にヒモをわたし、車のカバーで簡易テントを作成し、台所でくすねてきた食材料を広げます。今晩のメニューは『鳥釜めし』、 しかし、枯れ木に火をつけようとしてマッチ箱を開けると何と2本しかない!。もし、つけるのに失敗したら・・・メシが食えない。仕方ないので履いていた靴下を1足脱いで火を付けると化学繊維なので恐ろしいほどの炎をあげて燃えた!!。もしかしたら、この炎でご飯が炊けるかも?!でも臭そう・・・とバカなことを考えながらの野外調理はとっても楽しかったし、おいしかった。そしてあたりがすっかり暗くなったころ、テントに入ってエルと二人くっついて毛布1枚をかぶって寝ました。5月とはいえ、やはりムチャクチャ寒くガタガタと歯が震えました。でもエルの体が触れるお腹と気持はホカホカと暖かかった。

つづく・・・・・・

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わんぱく、自由奔放なキャラで過ごした小学校時代が終わり、松東中学校に進む。

部活動は当時、陸上、テニス、野球の3つしかなく、迷うことなく陸上部に入部。

1980年代にはあの有名なカールルイスが全盛期でロサンジェルスオリンピックでは100m、200m、走り幅跳び、400mリレーの4冠を達成 少年たちの心を鷲づかみにしました。

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小松には十数校の中学がありますが松東中学校は最少で部員数も最少。当時もっとも強く部員数も多かった安宅中学校の約半分の20数名の部員数でした。しかし、私たちはムチャクチャ鍛えられ、2年の新人戦では団体優勝しました。陸上競技は個人競技ですが、学校単位で獲得点数の高い学校が優勝するという団体部門もあります。他校が1人1種目に出場するのに対し、私たちは1人3種目に出場し、ほとんどの種目で上位を独占し、総合優勝するという快挙を達成。

ちなみに私は110mハードルと砲丸投げ、800mリレーに出場し、1位.2位.1位の順位でした。

中学になると体も随分と大きくなり、視野も少し広くなります。同級生たちは音楽に興味を持つ者、プロレスに興味を持つ者、車やバイクに興味を持つ者といったように学校や部活以外にも興味の対象は向けられます。私の場合はそれが他の人とは違った方向に向きました。

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                                                           日本を代表する冒険家に上村直己さんがいます。明治大学山岳部出身で、卒業後は世界で初めて5大陸の最高峰を登った人です。また、犬ぞりでグリーンランドを横断したり、北極点を極めたりしました。私が特に心を引かれたのは北極等のいわゆる極地を誰の力も借りずに犬と駆けたことでした。ちょうどその頃から『犬と人との関係』ということに興味を持ち始めており、ただ鎖でつないで飼い、食事と散歩をして・・・とういうだけの関係に疑問を抱いてきていたのです。それで、誰もいない、しかも自然という驚異の世界に犬と人間が身を置いた時にどういう関係が生まれるのだろうと考えました。 自分の経験したことのない親密な関係があるのかな?と。

でも、その答えはまだ中学時代には導き出すことはできず、ステージは高校時代にすすむ・・・・・・。

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観音下町には小松-尾小屋を結ぶ尾小屋鉄道が走っていました。

小学校低学年のときはまだまだ現役で、日に何本か写真のようなミニディーゼル車に乗って小松の町に出るのがステイタス!とてもすごいことでした。

しかし、その鉄道もやがて廃線になり代わりにワンマンバスが市道を走ります。

 今も昔の線路道が一部残っていますが、私にとっては切ない思い出が残る道です。

バロはカワイイ奴でエルとは違い私が何をしても決して怒ることはありませんでした。人に対してはとても温和でのんびり屋。

そのバロが散歩中に婦人を噛みました。犬が嫌いな婦人でバロを怖がって逃げたところ、犬の習性で追いかけて飛びかかってしまったのです。婦人の旦那はカンカン、私の父がバロを放したにもかかわらず父もカンカン!。とうとう殺処分という話まででました。少年の心は痛み何とかしてバロを守ろうととった行動は?!。家出です。それは事件の翌日に決行。

廃線になった尾小屋鉄道を小松に向って犬2頭を連れて歩きだすと、周囲は山に囲まれ、たくさんのトリのさえずりに感動!。いつもはランドセルを担いで登校し、朝の掃除をする時間に他の子供と正反対の事をすることに何故か快感を覚えました。途中で郷谷川向こうの市道を登校する子供たちに手を振り、道端で朽ちたブルトーザーに座って休み、また、てくてくと歩く。でもその頃小学校では大変なことになっていたらしいです・・・アハハハ。西尾小学校の校下は沢町までで、そこを超えると私には未知の領域でした。尾小屋鉄道には何度も乗っていたので時々陸橋があることは知っていました。

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そして最大の難所、金野の陸橋にさしかかったのです。この陸橋はこれまでのものとは比べ物にならないくらい大きく高いものです。なにしろ川幅10m以上の郷谷川を渡るものですので。しかし、ここを渡らないと先には進めない、意を決して渡り始めたとたんに、まずエルが嫌がり、次いでバロも・・・犬が嫌がるなら・・・仕方ないなぁ(本当はボクも怖い・・・)。トボトボと引き返し市道に出ました。金野の農協のところで休んでいると偶然通りかかった(本当は必死に家出少年を捜索していた)校長先生に会い、なだめられるようにして学校に連れて行かれました(本当は連行)。学校に到着するとオニバアバア保健の先生(母)、父、捜索にかかわった人(教員 親戚その他)らがおり、バツが悪かった・・・・・。でも、私の起こした家出騒ぎでバロの処分は取り消されました。

しかし、悲劇は再度起こったのです。不運にも同じ婦人に全く同じ理由で飛びかかってしまったバロ。事件が起こった日、学校から帰ったらすでに犬小屋にバロの姿はありませんでした。守ってあげられなかった悲しみと大人の理不尽な対処に腹が立つものの,

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なすすべもなく、切なさだけが胸に残った出来事です。

さようなら・・・・・・・。

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エルはメスで2歳の冬に2頭の子犬を産みました。

名前は『テツ』と『バロ』。2頭ともオスで『テツ』はエル似で短毛、『バロ』は父親の『ジロ』似で長毛でした。

寒い朝、犬小屋をのぞくと2頭が母親に抱かれゴニョゴニョと動いており、エルが大切そうに一生懸命子供をなめている。

あまりにも可愛くて触ろうとしたら『ウ〜!!』と歯をむき出しにして唸った・・・・・。

でも、うれしくて、うれしくて毎日学校が終わるのが本当に待ち遠しかった。放課後を知らせるチャイムが鳴ると速攻で家に帰りました。

2ヶ月経った頃、『テツ』は姉の友人にもらわれ、『バロは』家で飼う事にしました。

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『バロ』はオスだけあって力があり、2頭を連れての散歩は小学校4年生にはキツカッタ。

おまけに大変なイタズラ者でした。もう時効?だから言うけど、夜放すと朝必ずぞうりの左側をくわえて帰ってきました。だから私の家には他人の履物の左側がゴロゴロと・・・・・・・・。

また、売られたケンカは必ず買うところがあって、一度やりはじめたら手がつけられませんでした。

当時マンガで『白い戦士ヤマト』というのがあって、町内でも『犬は喧嘩するもんじゃ!』みたいなところがありましたから犬のケンカ事態は珍しくはなかったのですが・・・。

『バロ』は履物泥棒予防のため口輪(カゴタイプ)をして放していました。そして、ある朝全身血まみれで帰ってきたのです。誰かにやられたのは間違いない。犯人は誰?。実は私の友人のしかもバロの父親のジロにやられたのでした。今なら『犬を放したほうが悪いので犬が怪我をしたのは飼い主の責任』と自分を責め、動物病院に走るのでしょうが、当時は思考が全く変だったので、とりあえずケガしたところに赤チンをぬって、学校から帰ったらバロを連れて友人の家に仇打ちに行きました。ちなみに当然のことですが友人には全く恨みはなく、あくまでも犬同士の問題と考えての行動です。『口輪さえしてなければ、あんにゃろうになんかやられるはずがないんじゃぁ』。

さて、始まったバトルはすさまじかった!。犬同士のささいなケンカでも、少年の目にはサバンナで繰り広げられるオスライオンの命を掛けた戦いのように映りました。

決戦の行方は我犬の勝利に終わりました。

ごめんね。ジロ・・・・・・・。 

とにかくワンパクだったみたいです・・・

だけど当時イジメなどはなく、もっぱらイタズラが日常の中の楽しみだった。

アルバムを眺めていると恐ろしい写真が見つかりました。

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左手を上げて『イエ〜イ』

なんともバチあたりな・・・・。

撮ったのは親戚の姉ちゃんだけど

近所のおっさんにかち殴られました。

この頃は、大人が平気で近所の子供を叱ったり、殴ったりしたもんです。 

しかし、最近もっと恐ろしい事実が父の口から発せられました。

神社には神様の使いでもある『駒犬』が2体おいでて、1体は口に宝玉を加えています。

幼いころの私はどうしてもその球が欲しかったらしく、神社に行くたびに球を触っていたそうです。

それがある日『ポロッととれた・・・・・・』しかも、下顎といっしょに・・・・。

そんなアホな。しかし、なんとなく覚えがあるような・・・・。

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先日一応確認にその神社に行ってみましたところ、『アリャリャ〜』やっぱり、あ・り・ま・せ・ん・・・・・。

それからというもの、病院で犬の顎や歯を見ると何となく『ドキッ』としてしまいます。

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さて、初めて飼った『エル』は朝の散歩中に同級生の飼っていた『ジロ』と結婚して、2ヶ月後にはカワイイ子犬が2頭生まれました。1頭は『テツ♂』1頭は『バロ♂』と名づけ可愛がっていました。2カ月齢のころに『テツ』は父の知り合いの家にもらわれ、『バロ』は我が家で飼うことになりました。

当時は夜になると犬を放す習慣がありました。今では信じられないことですが、ジロ(♂ スピッツ系雑種 観音下町在住)もジロー(♂ 芝系雑種 観音下在住)、シー(♂ 秋田系雑 種 岩上在住)などの飼い犬が村を我が物顔で徘徊していました。

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近隣犬のジローと
2歳6か月のタカシ
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おまけ

初めて飼った犬は『エル』と名付けられました。

当時は犬を家の中で飼うということはありえなく、犬は外に犬小屋を造って鎖に繋いで飼うものでした。

散歩は朝と夕方、エサはよくいえば人間と同じもの、つまり残飯です。

エルはモリモリと餌を食べ、みるみる大きくなりました。

散歩が大好きで、私は朝5時に起きてエルを散歩に連れ出しました。

周囲は360度山で、エルは少年にはとても追いつけないスピードで野山を走りました。

田んぼのあぜ道を矢のように走り小さな点になるくらいまで遠くに行き、また走って帰ってきました。

ただ、気が向かないと帰ってこないことがあり、何回か小学校を遅刻したこともありました。

今ならあり得ませんね・・・・。

でも、あり得ない話をもうひとつ。

実は私の母は小学校の保健の先生で、しかも私が通う小学校にいました。それも6年間きっちりと。

ですから、私にとって小学校は毎日が授業参観のようなものでした。

私の通っていた西尾小学校は小松の山間部にある小さな学校で、クラスメイトは14人(男子5人、女子9人)。全校生徒は70数名でした。

生徒が少ない分、生徒間、生徒と先生の間も近くに感じたものです。ですから、親の手前、『いい子でいようっと』と思っていました。

が、しばらくすると本性が目覚め始めます。とにかくジッとしていることが嫌いで、常に何か面白いことをしていないと気が済まない(今でもそうですが・・・)。授業がつまらないと筆箱の中の虫で遊んだり(っえ?)、他の学年が運動場で理科の授業をしているのを見てそちらに参加したりと(おいおい)、ムチャクチャナことをしていました(ハハハ)。

その代り母も容赦がありませんでした。授業中にふざけているのを発見すると授業に乱入、担任を押しのけて私の頬を往復ビンタしたこともあります。運動場で立ちションして職員室に立たされたときは、職員室と家でボコボコにやられました。

おっとっと、犬との話しだった。

『エル』はよく吠える犬で本当に困りました。誰にでもあたりかまわずとにかく吠えないと気が済まない!といった感じ。

私の家と小学校は比較的近く、教室から『エル』が吠えているのがよく聞こえました。ある日、いつもより長く吠えているので気にしていると、例によって母が登場、『えっ?わしゃ今日はまだ悪いことしとらんぜ』と言おうとした矢先に『ちょっとエル何に吠えているのか見て来いま!』と母。

『っえ?』あまりの予想外の発言にアゴが外れそうになったが、『先生見てきていいですか?』と尋ねると『いいですよ!(できれば帰ってこないで・・・・)』っときたもんだ。大喜びで学校を抜け出しました。エルは吠えていたのに別に変った理由もなく、せっかくだからといって一緒に散歩に出かけました。平日学校に行かずに犬を散歩すると、見慣れた風景もいつもとは違ったように見えてドキドキしたのを今でもよく覚えています。

そういえばこんなこともありました。

毎年春と秋に狂犬病予防注射が西尾の場合は歩いて30分くらい離れた塩原町公民館で行われており、そのときにもやはり学校を抜け出して自分が注射に連れて行っていました。

おもしろいもので、注射を受ける時に犬が臭かったり汚れていたら恥ずかしいと思ったのか、注射の前日に犬を洗う風習がありました。また、その時に新しい首輪と鎖にチェンジ!するのも毎回のことでした。ですから我が家には何本も古い鎖があり、その鎖を使って当時大流行したブルース・リーのヌンチャクを作ったものです。

春は蒸せるような新緑に誘われ、秋には秋晴れの太陽の臭いに乗るように、歩いて会場に向かうのですが、決まって注射会場を目の前にした時に、犬が嫌がって首輪抜けをして逃げ出したものです。この集合注射は現在でも行われており、自分も去年は塩原会場の担当になりました。でも、さすがに学校を抜け出して登場する少年はいませんでしたヨ。

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左)体操服がシブイでしょう

右)最近こんな風に犬を飼う家庭が減りました。どこか懐かしいですね

  この犬小屋でよく一緒に寝ました。

とにかく動物が好きでした。

住んでいたのは小松市観音下町(かながそまち)。大倉岳高原スキー場の少し手前の小さな集落です。自然が豊で遊びといえば魚釣りやカブトムシとり、捕まえた生き物はほとんど家に持ち帰って飼っていました。カブトムシなどは塩原町のチップ工場のオガクズを鍬で掘るとボコボコ獲れ、1m四方の木箱で100匹くらい飼っていました。夜になると『ギシギシ』と家の外から変な音がするので見に行くと、木箱の網に100匹のカブトムシがひしめき合ってぶら下がっているのを見て、さすがに気持ち悪くなったのを今でもハッキリと覚えています。タヌキやテン、リス、ムササビなどはしょっちゅう見かけ、クマが、自分たちが『缶けり』をしてよく遊んでいた神社の縁の下に潜んでいたのが発見され、銃殺されたこともありました。野良犬もよく見かけエサを与えて親に叱られたり、ネコを拾って帰り『川に捨ててきなさい!』とガンコなことを言われ泣いたこともあります。

 私が一番欲しかったのはズバリ『自分の犬』です。TVで『名犬ラッシー』の実写版をやっており、食い入るようにして見ていました。いつかコリー犬を飼おうと決心し、父に手取りフィッシュランドに犬を見に連れて行ってもらっていました。純血種は当時では珍しく、犬といえば村を徘徊する野良犬や放し飼いの雑種犬しか見たことのない少年にとってそこはTVの世界。セントバーナード(アルプスの少女ハイジに出てくるヨーゼフ)、シェパード(警察犬カール)といった当時放映されていた番組のスター犬と同じ犬が直に見られ、大興奮です。その中でもやはりコリーはひと際輝いて見えました。当時柴犬が3万円で、コリーはハッキリとは覚えないのですが10万円ぐらいでした。お金を貯めるため親の肩たたきをしたら自前の手帳に10円ずつ金額を書き加えてくれ、コツコツと毎日肩を叩きました。我ながらカワイイもんです。しかし、幼なながらに『いつになったら貯まるんやろか?』と思い始めたのと、ある人が『子犬をくれる』というので、ついもらうことになってしまいました。雑種とボクサーの合いの子で家に来たときは3ヶ月でした。私が小学2年生のときです。

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今見ても不細工な顔(犬がですヨ)。でも、可愛かったなぁ~。

この日から、結構ユニークな犬との暮らしが待ってました。

続きはまた、お話ししましょう。

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第1種動物取扱業

・第220B058号
・登録年月日 令和2年6月16日
・登録期間の末日 令和7年6月15日
・動物取扱責任者氏名 鈴木隆史
・動物取扱業の種別 保管